川辺じゅんのすけ

秋田に新しい風を。

安心して暮らせる、
そして夢と希望を持てる
秋田を創る。

想いMESSAGE

私の秋田

「ふるさとである秋田がいつまでもそこにあるように」

この想いが秋田で頑張りたいと決心したきっかけです。

1982年7月に秋田市で生まれ、18歳で進学のため上京し2008年から農林水産省や海外で仕事をしていた間、私は秋田のことを「ずっとそこにあるもの」と思ってきました。帰ればいつでも両親や友人がいる、面倒を見てくれた親戚や近所の人たちもいる、お気に入りの定食屋もある、お店もある、人もいる、安心して暮らせる環境がある。大学生になって上京してからは、「秋田には何もない」とかっこつけて思うときもありましたが、大学が長期休暇に入ればすぐに親に「帰るわ」と連絡し、秋田行きのチケットを予約したものでした。

しかし、秋田は大きな変化の波にさらされていました。友だちと集まっていた場所もなくなっていき、いつも「元気だが!」と声をかけてくれた近所の人は少しずついなくなって、家があった場所も空き地になり、高校生のときに通っていたとんかつ屋もなくなりました。県内を旅行をしたときには、手つかずの農地が目立って、地域に元気がなくなっていたことにも気付きました。帰るたびに変わっていくふるさと。それでも、「秋田はずっとあるはず」と自分に言い聞かせるようにしていたことを今も覚えています。

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現実は違いました。「秋田の人口減少率は全国で最高」、「20年以上全国で最も低い出生率」、「秋田県の約9割の自治体は将来消滅するおそれ」。寂しいニュースばかりが飛び込んできました。「秋田は100万人」ではなかったのか。東北でも有数のにぎわいのある街ではなかったのか。目を背けたくなる現実が、そこにはありました。

そんな中、2023年7月に大雨が秋田を襲いました。7月15日に母から「太平川、氾濫した。ひどくなったら二階に避難する。」というメッセージが届きました。添付されていた画像には、実家の前の道路が冠水し、太平川に面した庭が池のようになっている様子が写っていました。18年間秋田で過ごしてきて、実家のある地域がここまで水浸しになった記憶はありませんでした。海外にいた私はリアルタイムで状況を把握できない自分にもどかしさを感じ、また、母がメッセージを読まない時間が長いと「もしかして…」と不安でいっぱいになったことが何度もありました。幸い、家族も親戚も無事でしたが、小、中、高校生時代に良く通っていた近所の橋がぼろぼろになった画像を見たとき、胸が詰まったことを覚えています。

「いつまでも当然そこにあると思っていたふるさとが、そうではなくなった」このとき、こう強く思いました。かけがえのない場所を残すため、一生懸命秋田で頑張りたい。私の決意です。

秋田に戻ることと家族の支え

「秋田を元気にするために、農林水産省を志望しました。」

2007年の採用面接で、私が答えた志望動機です。2001年に進学した慶應義塾大学では法律や国際政治を専攻し、農林水産業についてはほぼ何も学んではこなかったので、同級生からなぜ農林水産省を選んだのかと何度も聞かれたことを覚えています。
その頃の私の中には、徐々に弱っていっている秋田を何とかしたいという漠然とした想いがありました。なぜ地域が弱っているのか、それは地域の基幹産業である農林水産業が弱っているから。このまま農林水産業が元気をなくすと、そのままその地域が倒れてしまうと感じていました。
農林水産省で国政の一端を担って働きながら、ずっと一貫して、「秋田を何とかしたい」という想いが私にはありました。

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それでも、秋田に戻るという選択は、容易なものではありませんでした。仕事を投げ出した、無責任と思われるのではないか。慣れない環境の変化で妻や子どもたちに不安を与えてしまうのではないか――。目の前に積みあがる仕事からのプレッシャーと将来への悩みにさいなまれて心の余裕がなくなり、私と一緒に遊びたいだけの子どもに強く当たってしまうようなこともありました。

「秋田に戻りたい」。そう伝えたとき、家族は反対するだろうと思っていました。しかし、妻からの返事は、「いいよ。ずっと秋田をどうにかしたいって言っていたじゃない」というものでした。実は妻も農林水産省の農業研修プログラムで1か月ほど秋田に滞在していたこともあり、私が秋田のことでいろいろと悩んでいるときもそっと後押しをしてくれたことを覚えています。2人の子どもも、「秋田に住むの楽しみ!じいじとばあばと遊ぶ!」と楽しそうに話していました。 

今までゆっくり過ごしてきた両親には2人の子どものありあまる元気が少し大変かもしれませんが、秋田に戻ってきて以来、子どもたちは毎日にこにこと遊び、「おいしい」とたくさん食べ、ぐっすりと眠っています。こうした幸せな時間が、いつまでも続いてほしい。
 県民の皆様一人ひとりが住んでいて良かったと誇りを持てる秋田を創るため、そして、誰もが大切な人と安心して暮らせる秋田を創るため、全力で頑張ります。

自己紹介PROFILE

川辺(かわべ)じゅんのすけ

川辺(かわべ)じゅんのすけ

昭和57年生まれ(42歳)
1982年7月 秋田市生まれ
東小学校、城東中学校、秋田高校、慶應義塾大学を経て、2008年農林水産省入省
農林水産省では農村振興や土地改良、米政策を担当するとともに警察庁や財務省、在ドイツ日本国大使館(ドイツで秋田県産品のPRも!)にも出向これまで培った経験を故郷秋田のために生かしたいと思い、秋田で頑張ることを決心

趣味:ヨガ、ウォーキング、人と話すこと、温泉めぐり、その地域のパン屋さんめぐり
特技:泣いている子どもをあやすこと、実現するための道筋を立てること、プレゼンテーション、ベルリン観光案内
座右の銘:為せば成る
愛読書:夏目漱石『こころ』、原田マハ『楽園のカンヴァス』、沼田まほかる『猫鳴り』、ダン・ブラウン『ダ・ヴィンチ・コード』
家族構成:妻、子ども2人(9歳長女、3歳長男)

生い立ちから現在までをみる

生まれと幼少期

生まれと幼少期

昭和57年7月21日、秋田市の日赤病院で学校事務を担当する公務員の父と母の長男として生まれる。
その後、父の転勤に合わせて角館と大館(南が丘幼稚園)で元気に過ごす。

小学校・中学校

小学校・中学校

6歳のときに秋田市に戻り、東小学校に入学。友だちと走り回るのが好きで、コマやけんだまといった昔の遊びにはまったことも。
中学は、近所の城東中学校へ。始めて習う英語がとても好きで、家でも気取ってカタコトの英単語を使う。ソフトテニス部に入り、明るい先輩と友だちに恵まれ、楽しくボールを追いかける。

高校

高校

秋田高校に入学。文系クラスでとても「多彩な」友だちと一緒に過ごす。
バンドに憧れ軽音部に入部するも歌が苦手なことに気付き、すぐに聴く方に専念(退部)。

大学

大学

法律家を目指し、慶應義塾大学法学部法律学科に入学。入学した年の9月にアメリカ同時多発テロが発生。テレビで見た光景が忘れられず、国際関係をちゃんと学びたいと思うように。
学部で国際法を学び、大学院では国際政治を専攻。学んだ理論を社会の役に立てたいという気持ちが強くなり、学問の道から国家公務員の道を志望するようになる。

霞が関での生活

霞が関での生活

2008年に農林水産省に入省。農村振興や土地改良事業、家畜衛生、輸出促進、米政策などに従事。米の作付方針に関する意見交換で秋田のJAを訪問。仕事で秋田を訪問するという一つの夢もかなう。
警察庁や財務省にも出向。在ドイツ日本国大使館に出向したときには、お米や加工食品、稲庭うどんなど秋田県産品のPRにも従事。ドイツマーケットでの秋田の認知度向上に汗をかく。このほか、外交官として、EUによる日本産食品に対する放射性物質輸入規制の撤廃に向けて、日本産食品の安全性についてドイツ政府を説得。12年にわたる規制の撤廃に貢献。

留学

留学

アメリカ・ボストンにあるタフツ大学フレッチャー法律外交大学院に留学。国際関係における食料外交などについて研究し、修士号を取得。世界食糧機関(FAO)でのインターンシップも経験。

秋田へ

秋田へ

霞が関で培った経験やネットワークを秋田で活用して秋田に貢献したいという想いが強くなり、2024年12月に農林水産省を退職して秋田に戻る。じいじ、ばあばの力を借りながら、9歳と3歳の子どもに食や文化などに関する秋田の英才教育中。どうやったら秋田での子育てをもっと楽しくできるか、妻と話すことが増えてきている今日この頃。

私の政策POLICY

秋田はもっと良くなる!
夢と希望を持てる秋田と、安心して暮らせる秋田を創る

夢と希望を持てる秋田のために

農林水産業から秋田の未来を拡げます

北海道を除くと、秋田の食料自給率と一農家当たりの耕地面積は全国で1位。たくさんの魅力がある食。秋田の強みである農林水産業を突破口にして、産業を元気に、地域を豊かにしていきます。5年後、10年後まで生産をしっかりと維持して、秋田が日本の食を支える未来を目指します。

具体的な政策例
  • 生産性を上げる基盤の整備を続け、県産食品・県産材を継続的にPRして県内外での消費拡大を進めることで、現在の農林水産業を継続できる環境を作ります。
  • 加工や輸出、先端技術の活用に力を入れて秋田の農林水産物の価値を何倍にも高めて販売することで、生産者の方々の手取りをしっかりと増やし、若い世代が秋田で農林水産業を継ぐ魅力を高めます。
  • 豊かな食と自然環境をアピールして、国内外から人と投資を呼び込みます。
  • 農林水産業が作る穏やかな住環境をアピールポイントに二拠点生活や移住を増やし、人口減少の解決にもつなげます。
秋田を住み続けたい・住んでみたい県に!

子育て、教育、福祉、そして雇用を充実させて、全ての世代にとって秋田での暮らしを魅力的なものにします。全国的な課題である人口減少の解決策を秋田から示します。

具体的な政策例
  • 子育ての負担は金銭的なものだけに限らないという考えで、子育て支援の拡充や発信をしっかりと続け、子どもを持つことが負担にならない環境を作ります。また、イベントの誘致や人との交流の機会を増やして、子どもたちがわくわくする秋田も作ります。
  • 大人や子どもたちのニーズにあった教育を受けられるようにするとともに、「教育なら秋田」のイメージを作り外からも子どもたちを呼び込みます。
  • 民間の方々とも連携して、必要なケアが必要な方に届く不安のない福祉環境を整えます。
  • 外部からの企業誘致と合わせて食や再生可能エネルギーなど秋田にしかない資源を活用した秋田型地域産業を作り、魅力ある雇用を生み、産業全体を盛り上げます。また、県内で就職する方向けの奨学金返還助成制度を手厚くして、「就職するなら秋田」運動を展開します。

安心して暮らせる秋田のために

災害に強い秋田を創ります

毎年大雨被害が発生するなど、災害はもはやいつもそこにある危機となっています。これ以上悲しみを感じる人を増やさないよう、被害を予防するという考えで平時からしっかりと対策していきます。誰もが安心して日々の生活を送ることができるよう、秋田県を災害に強い県にします。

具体的な政策例
  • 大きな水害の発生を二度と繰り返さないために、国と県で採択した「雄物川下流圏域水災害対策プロジェクト」や「内水被害等軽減対策計画」に基づく河川・下水道事業を着実かつ迅速に実施します。
  • デジタル技術を活用した避難所運営など、国の方針・システムと県の取組をいち早く連携させ、万が一のときに誰もが救助・支援を受けられるようにします。
  • 発災時に誰もが安心して対応できるよう、各種ハザードマップの作成・更新を進めるとともに、住民の皆様に届くようにしっかりと発信します。
  • いざとなったときに冷静に避難できるよう、地域ごとの定期的な防災訓練や学校における防災教育を推進します。

リーフレットPROFILE

リーフレット「ふるさと秋田がいつまでも、そこにありつづけるように」リーフレット「ふるさと秋田がいつまでも、そこにありつづけるように」
子どもも、両親も、笑顔になれる秋田を!子どもも、両親も、
笑顔になれる秋田を!
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